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「山、山に非ず」

高校時代、吉田琢という同級生がいた。

琢は山岳部だった。細身でしかしながら鍛えられた肉体を持つ男で同時に彼はボクサーでもあった。父親が空手の師範だったので格闘技にも多分に興味があったサッカー部の僕と、ボクシングを愛する山岳部の琢。クラスが一緒だったこともあって体育の授業の時などはそのお互いの体力を競い合ったものだ。

その琢が高校三年のある朝、教室の隅で非常に落ち込んでいた。僕はどうしたの?と声をかけた。琢は「俺が一番尊敬している人が昨日死んだらしいんだ」と言った。”死んだらしい”という不確定な言い方が引っかかったので僕が恐る恐る「どういうこと?」と突っ込むと本当に思いつめた顔で琢は言った。「加藤保男という日本山岳界の英雄がエベレストで遭難したらしいんだ」1982年の12月、僕はこの時に”加藤保男”という男の名前を初めて聞いた。

 

時は流れ、音楽業界で働くようになってからは25歳でクラブチームでやっていたサッカーも辞め、マリンスポーツも頻繁にはやらなくなっていった。その代わりに”山系スポーツ”を好んでやってゆくようになっていた。冬は雪山を滑ったり(スノーボード)冬以外は自転車で山を下ったり丘を跳んだり(ダウンヒルバイク)がしかし、音楽業界で時間に不規則で不摂生の塊みたいな生活をしていた僕にとって(全ての音楽業界の人がそうではないですが)それは時々のレジャーの範疇でしかなく、本格的な”登山”に対する漠然とした憧れはほんの微かにあっても自分が登ろう、登れるなどとは思ったりしたことはなかった。

 

ここ数年、僕には何度目かの”読書ブーム”が訪れている。とくに”山岳もの”を好んで読むことが多い。フィクション、ノンフィクション問わずだ。なぜ”山岳もの”を読むようになったのか理由はよくわからないし、きっかけも覚えていない。だが読んでいると引き込まれてゆく自分が確かにいる。過去の登攀歴史や著名な登山家の物語。全くの”山知らず”だった僕がそれらを読んでいると、高校時代に吉田琢から聞いたがあまり気にも留めていなかった「加藤保男」という登山家がどれほど偉大でどれほど人気があってどれほど世界の山岳界から期待されていた人物だったのかということに改めて気付かされる。加藤氏が3度目のエベレスト登頂直後に山頂直下で遭難死されてから早31年が過ぎているのだが、恐らく今こうやって心動かされている僕のような人間もこの31年の間にたくさんいるのだと思う。他にも長谷川恒男、森田勝、植村直己、小西政継、今井通子田部井淳子、名塚秀二、山田昇、山野井泰史、山野井妙子ら、ここでは書ききれないくらい素晴らしい登山家が日本には沢山いる。そして実はここに記している有名登山家たちで4名以外は山で命を落としており存命者ではない。それほど過酷である意味”スポーツ”などとは到底言えない登山というものに人はなぜ惹かれてしまうのだろうか。

 

そんな”山素人”の僕でも富士山に登った事がある。2008年8月、音楽業界を辞めて1年も経った頃に友人の平野敬介とその妻・麗と僕の3人は富士山頂に立つ。僕は過去に一度、中学三年の夏に父親と一度富士山に登っている。その時は何のストレスもなく体力に任せて頂上に立っていたので苦労した記憶はないが、40歳を過ぎて何のトレーニングもしていない今の身で登れるのかと少々不安だったがなんとか登れた。3人で見た山頂からの朝日は今でも記憶に鮮明に残っている景色だ。

 それ以外は登っていない。高尾山にすら登っていない。あ、子供の頃に筑波山は登った記憶がある(笑)そのくらいのど素人の僕がこの”山岳もの読書熱”の流れに乗じて今後「山オジサン」になってゆくのかどうか、自分でもちょっと楽しみである。

 

2005年の冬、僕は白馬にスノボに行った。吹雪の中をリフトで山頂に登った時、そこは”無音の世界”だった。都会の喧騒の中で生活していてかつ、”音”の世界で生きていた僕はその”無音”に対しとても感動したのを覚えている。いや、正確に言うと「自然の音しか聴こえない世界」か。そしてその場所ではスノウボードを抱えた人間のほうが全く不自然な生き物のようなに感じた。

 

「自然の音しか聴こえない世界」に行くために山を登る。

きっかけはそんなもので充分なのかもしれない。