Bar Hotel California.

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逃走。

昔、ミュージシャンの甲斐よしひろ氏が言っていた。

 

「歌詞で言いたいことは一行だけ。その一行のために肉付けをしてゆく」と。

 

それを聞いたのは僕が20代前半の頃だ。

この言葉に僕はとてもとても感銘を受けた。それ以来、甲斐さんの歌詞を見ては「どこが一番言いたかったことなのか?」を読み取るような意識になっていった。

いや、甲斐さんの歌詞だけじゃない。何かにつけて『この中で一番言いたい一言は何なのかなあ』と考えるようになった。歌詞はもちろんのこと、日常生活の中で、書籍でも論文でも会議でも口喧嘩でもインタビューでも、なんでも。街で他人と喧嘩になった時も「で、どうしたいの?話まとめようよ、長々やっても意味ないから」なんて言う始末。

 

昨日、図書館である本を読んでいた。その本はわりと文字量が多い本でなかなか読み応えがあったのだが、前半の部分である一行を読み、「ああ、この一行のために僕はこの本を読んでいたんだな」と思ってしまった。それはそれは僕にとって非常に意味のある文で、今まで僕が「そうなんじゃないかなあ、何でだろうなあ」と曖昧に思っていたことが、そこに的確に記してあったのだ、それもそれを期待して読んでいたのではなく、偶然にも、突発的に出てきたのである。

 

こういうことって人間は、忘れないんだよね。

そう、記憶って「印象の強さ」なんだよね。

 

で、僕はふと気がついた。

今まで無意識の中で、そうやって物事に対して考えて対峙してきたんだろうなあって。

 

 

でも最近思うのだが、その”一行”を伝えるためのその周辺の沢山の「文字」っていうのもとても必要なものなんだろうなあって。

もしくはそんな”一行”なんかなくても(探さなくても)いいことだって沢山あるんじゃないかなあって。

 

そう考えた僕は、今までならそこで読み終えていただろう本を最後まで読んでみようと思った。途中少々苦痛だったが、でも読み終えようと思った。

 

 

今までは僕は全てを「要約」「簡潔」「短絡」して生活してきたような気がする。

なぜなら、時間がないから、とか余裕が無いから、とか、まあ自分のキャパシティが小さかったんだよね、きっと。

 

で、最近、色々考える。時間が有り余っているから考える。「今まで本当に考えてこなかったんだなあ僕は馬鹿だなあ恥ずかしいなあ申し訳ないなあ」と人生を反芻反省しながら、色々考える。

 

で、もっと前後の文とか、もっと余白の部分だとか、もっと挿絵の部分だとかに反応出来るような考え方をしてゆこうかなって。

 

The Eaglesの歌に「Life in the fast lane」という曲がある。

僕はそろそろ、attempt to ease out of life in the fast lane、かな。

 

あ、

 

そうか、これは競争社会からの逃走なのか。

 

そうなのか。

 

そうなのか?

 

ちょっと考えてみる(笑)

いや、笑うとこじゃないな。

 

とりあえず、朝食食べます。

 

あ、最近、「朝コーヒー」するようになりました。

コーヒー飲まなかった僕が、です。

人って変わるよね。